東方明珠電視塔が誕生した年~1994年の上海外灘 [上海生活]
1994年12月。
1993年3月15日に出張で中国上海へ出掛け始めて1年9ヶ月目。
この年の7月には漸くアパートも決まって落ち着き始めた頃だった。
この間に、上海,広州,北京,重慶,成都,西安,武漢を、新たなサービスセンターの立ち上げで、1人で
出張していた(日本からの応援は、契約と開業式の時くらいだった)。
中国を理解している人なら、言葉が大変(上海を含め全て方言)と思ってくれるかも。
「日本人」の発音が、北京は「リィベンレン」、上海は「ザパニン」、広州は「ヤップンニン」、四川は
「ズゥベンレン(+四声の第3声と4声が反転してるので抑揚が正反対になる)」。
「いったいどうなってんの」と思うのと同時に、覚えたての頃は、標準語がどれなのか混同した。
(或る日突然言い付けられた中国赴任だった為、中国語を習う時間なく上海に放り込まれたので、
全て現地にて耳で覚えた・・・)
渡航し始めの頃にも、外灘に来ると見えていたのは「東方明珠電視塔」の土台工事。
川の向こう岸(浦東区)のだだっ広い地面から、奇妙な球の付いた三本足だけがニョッキリと突き出した
不思議な光景。この頃の浦東区周辺は、NECの看板が目立つ「港務大厦」と、建設中の「震旦国際大厦
(節日毎にレーザーで文字が照射される金ピカビル。電卓企業AUROLAの看板がある)」しか、高いビル
らしきモノは無かった。
その真ん中辺りに、その三本足を従えて、次第に現れる円柱の物体。今思うと、定期的に写真の収めて
おくべきだった・・・。
そして、外灘脇にある上海大厦(百老汇大厦:上海マンション)の屋上広告塔には、当時の旅行雑誌や
パンフレットの「上海」コーナーに、必ず登場していた「aiwa」の電飾看板。
今と違って少し殺風景な外灘の景色を、昔の写真を引っ張り出して集めてみた。
昼間、お天気は足下がぬかるむ雨。
広州から遊びにやって来た画家爺ぃさんを連れて、出来たばかりの東方明珠電視塔を見に出掛けた。
到着して直ぐ、外灘公園のバンドに上がる前にパチリ!
後ろの景色は上海外灘老碼頭。
上海市政府大楼。(後の汇豊銀行)
外灘名物風景を背景にパチリ!
左は「港務大厦」と、右は建設中の「震旦国際大厦」。
上海に来た当初は、外灘に来て見えるのは、出来損ないのテレビ塔と2,3個の建物だけだったので、
殆どつまらなかった。でも、知っている所はここしか無く、近場の散歩に飽きたら、南京西路のポートマン
からここまで良く歩いて出掛けた。
言葉が全く出来なかったので、出掛ける時は殆どが徒歩だったが、帰りは「波特曼(ぽーとまん)」で
通じるので、タクシーで帰ったものだった。
上海大厦をバックに、爺ぃをストロボシンクロでパチリ!
この当時の広告ネオンは「aiwa」だった。
さて、夜の外灘にも来てみた。
ライトアップされた市政府大楼。
電気が厳しく、毎日区画制限停電を行っているというのに、この勿体ない電気の使い方に良く疑問を持った。
夜の電視塔。
開業してたった2ヶ月なのに、もう上から2つめの証明が切れてる・・・
こんなに輝いたのは、後にも先にもこの年だけ。
後に、この首部分にある6つの長四角い穴は、カラフルになる。
隣の港務大厦の「NEC」電飾看板は、当時ではかなり有名だった(浦東にビルはここしか無かったし・・・)。
そしてもう一つ、当時の名物看板はこちら。
昼間は小さく撮影した「aiwa電飾」の上海大厦。
当時のウチの会社だったりする・・・。(^灬^
この後、3年の契約が1995年に終了し、費用は同じと言う事だったので、ためらわず延長を申請したが、
次に来た日本家電メーカーに取って代わってしまう。
当然契約書があったのだが、ビルの広告管理者、広告会社、仲介者、弁護士など、全て人が換わっており、
手元の契約書が「無効だ」と言い始める。
こちらも弁護士を立てて法に打って出たものの、結局向こう側が有利な内容で和解させられ、違約金として
幾らか貰って終了させられた。この時にかなり中国の契約に意味が無いことを勉強したが、結局は、こちら
の弁護士も「グル」だったに違いない。
ヤツらは所詮、無法地帯中国の同志たち。
外国人の、しかも日本企業となれば、120%大陸のご都合で丸められるしか無い‥と言う事だ。
その後に来た日本家電メーカーもグルだったかも知れない。
日本本社側で、一応意見は言ったようだ(無駄だし、格好悪いのでよせと言ったが)。
南京東路を真ん中に、和平飯店(沙遜大厦)から中国銀行を経て上海大厦(百老滙大厦)までの夜景。
同じく、その逆サイドで、交通銀行大楼から南側のビル群。
和平飯店南楼が入ってなかったが、その南隣の交通銀行大楼-海関大楼-上海市政府大楼
-輪船招商総局-大北電報公司大楼・・・そこから先は見えてないけど、元芳大楼-日清大楼
-有利大楼-上海総会と続く。
バンドから南京東路口をパチリ!
バックは和平飯店(沙遜大厦)
和平飯店(沙遜大厦)をソロでパチリ!
字林西報大楼に浮かぶ、初代上海市長「陳毅」の像。
この時の字林西報大楼は「内河航運局」や「中国絲綢公司上海分公司」が使用。その後、友邦大楼
(美国友邦保険有限公司:AIA)となる。
満月のハレーションが眩しい東方明珠電視塔。
当時、見れば見るほど変な形のタワーだと感じたが、今はもう慣れた。
市政府大楼と海関大楼(何れも1994年当時)夜景。
今の人民市政府は、人民公園の南手に新庁舎として引っ越ししている。
外灘から南京路へと戻ってくると・・・
タクシーを拾って、外白渡橋を渡り、呉松路から四平路に入って、臨平北路に借りた新居、虹臨公寓へと
帰宅した♪
この間、道なりに真っ直ぐ走れば10分で到着
ロケは最高なんだけど、近場に何もないのが欠点だった・・・。
この時、あとどのくらい中国に係わるのか考えてなかった。
会社命令は2年。
結果的には4年弱だったが、その後も日本から係わりながら、とうとう居着いてしまうハメに・・・(ははは。。。)
懐かしの上海、四虎旅行記にも載せておきました
1993年3月15日に出張で中国上海へ出掛け始めて1年9ヶ月目。
この年の7月には漸くアパートも決まって落ち着き始めた頃だった。
この間に、上海,広州,北京,重慶,成都,西安,武漢を、新たなサービスセンターの立ち上げで、1人で
出張していた(日本からの応援は、契約と開業式の時くらいだった)。
中国を理解している人なら、言葉が大変(上海を含め全て方言)と思ってくれるかも。
「日本人」の発音が、北京は「リィベンレン」、上海は「ザパニン」、広州は「ヤップンニン」、四川は
「ズゥベンレン(+四声の第3声と4声が反転してるので抑揚が正反対になる)」。
「いったいどうなってんの」と思うのと同時に、覚えたての頃は、標準語がどれなのか混同した。
(或る日突然言い付けられた中国赴任だった為、中国語を習う時間なく上海に放り込まれたので、
全て現地にて耳で覚えた・・・)
渡航し始めの頃にも、外灘に来ると見えていたのは「東方明珠電視塔」の土台工事。
川の向こう岸(浦東区)のだだっ広い地面から、奇妙な球の付いた三本足だけがニョッキリと突き出した
不思議な光景。この頃の浦東区周辺は、NECの看板が目立つ「港務大厦」と、建設中の「震旦国際大厦
(節日毎にレーザーで文字が照射される金ピカビル。電卓企業AUROLAの看板がある)」しか、高いビル
らしきモノは無かった。
その真ん中辺りに、その三本足を従えて、次第に現れる円柱の物体。今思うと、定期的に写真の収めて
おくべきだった・・・。
そして、外灘脇にある上海大厦(百老汇大厦:上海マンション)の屋上広告塔には、当時の旅行雑誌や
パンフレットの「上海」コーナーに、必ず登場していた「aiwa」の電飾看板。
今と違って少し殺風景な外灘の景色を、昔の写真を引っ張り出して集めてみた。
昼間、お天気は足下がぬかるむ雨。
広州から遊びにやって来た画家爺ぃさんを連れて、出来たばかりの東方明珠電視塔を見に出掛けた。
到着して直ぐ、外灘公園のバンドに上がる前にパチリ!
後ろの景色は上海外灘老碼頭。
上海市政府大楼。(後の汇豊銀行)
外灘名物風景を背景にパチリ!
左は「港務大厦」と、右は建設中の「震旦国際大厦」。
上海に来た当初は、外灘に来て見えるのは、出来損ないのテレビ塔と2,3個の建物だけだったので、
殆どつまらなかった。でも、知っている所はここしか無く、近場の散歩に飽きたら、南京西路のポートマン
からここまで良く歩いて出掛けた。
言葉が全く出来なかったので、出掛ける時は殆どが徒歩だったが、帰りは「波特曼(ぽーとまん)」で
通じるので、タクシーで帰ったものだった。
上海大厦をバックに、爺ぃをストロボシンクロでパチリ!
この当時の広告ネオンは「aiwa」だった。
さて、夜の外灘にも来てみた。
ライトアップされた市政府大楼。
電気が厳しく、毎日区画制限停電を行っているというのに、この勿体ない電気の使い方に良く疑問を持った。
夜の電視塔。
開業してたった2ヶ月なのに、もう上から2つめの証明が切れてる・・・
こんなに輝いたのは、後にも先にもこの年だけ。
後に、この首部分にある6つの長四角い穴は、カラフルになる。
隣の港務大厦の「NEC」電飾看板は、当時ではかなり有名だった(浦東にビルはここしか無かったし・・・)。
そしてもう一つ、当時の名物看板はこちら。
昼間は小さく撮影した「aiwa電飾」の上海大厦。
当時のウチの会社だったりする・・・。(^灬^
この後、3年の契約が1995年に終了し、費用は同じと言う事だったので、ためらわず延長を申請したが、
次に来た日本家電メーカーに取って代わってしまう。
当然契約書があったのだが、ビルの広告管理者、広告会社、仲介者、弁護士など、全て人が換わっており、
手元の契約書が「無効だ」と言い始める。
こちらも弁護士を立てて法に打って出たものの、結局向こう側が有利な内容で和解させられ、違約金として
幾らか貰って終了させられた。この時にかなり中国の契約に意味が無いことを勉強したが、結局は、こちら
の弁護士も「グル」だったに違いない。
ヤツらは所詮、無法地帯中国の同志たち。
外国人の、しかも日本企業となれば、120%大陸のご都合で丸められるしか無い‥と言う事だ。
その後に来た日本家電メーカーもグルだったかも知れない。
日本本社側で、一応意見は言ったようだ(無駄だし、格好悪いのでよせと言ったが)。
南京東路を真ん中に、和平飯店(沙遜大厦)から中国銀行を経て上海大厦(百老滙大厦)までの夜景。
同じく、その逆サイドで、交通銀行大楼から南側のビル群。
和平飯店南楼が入ってなかったが、その南隣の交通銀行大楼-海関大楼-上海市政府大楼
-輪船招商総局-大北電報公司大楼・・・そこから先は見えてないけど、元芳大楼-日清大楼
-有利大楼-上海総会と続く。
バンドから南京東路口をパチリ!
バックは和平飯店(沙遜大厦)
和平飯店(沙遜大厦)をソロでパチリ!
字林西報大楼に浮かぶ、初代上海市長「陳毅」の像。
この時の字林西報大楼は「内河航運局」や「中国絲綢公司上海分公司」が使用。その後、友邦大楼
(美国友邦保険有限公司:AIA)となる。
満月のハレーションが眩しい東方明珠電視塔。
当時、見れば見るほど変な形のタワーだと感じたが、今はもう慣れた。
市政府大楼と海関大楼(何れも1994年当時)夜景。
今の人民市政府は、人民公園の南手に新庁舎として引っ越ししている。
外灘から南京路へと戻ってくると・・・
タクシーを拾って、外白渡橋を渡り、呉松路から四平路に入って、臨平北路に借りた新居、虹臨公寓へと
帰宅した♪
この間、道なりに真っ直ぐ走れば10分で到着
ロケは最高なんだけど、近場に何もないのが欠点だった・・・。
この時、あとどのくらい中国に係わるのか考えてなかった。
会社命令は2年。
結果的には4年弱だったが、その後も日本から係わりながら、とうとう居着いてしまうハメに・・・(ははは。。。)
懐かしの上海、四虎旅行記にも載せておきました
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